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小泉武夫氏小泉武夫(こいずみ たけお)氏
1943年福島県の酒造家に生まれる。現在、東京農業大学名誉教授、鹿児島大学客員教授、広島大学客員教授、琉球大学客員教授、石川県立大学客員教授、農水省政策研究所客員研究員等勤める。 農学博士。著書は『食と日本人の知恵』、『酒の話』、『発酵』、『日本酒ルネッサンス』、『食の世界遺産』など単著で132冊を数える。現在、日本経済新聞にエッセイ『食あれば楽あり』を23年にわたり連載中。江戸の酒と人間模様を描いた小説も書く作家でもある。趣味は江戸料理。

造り酒屋の第一号
 

 日本の歴史上、造り酒屋の最初はいつ頃で、その酒屋の名前は何だったのだろうかを知りたくて調べてみると次のようなことがわかった。「酒屋」という文字の初見とされているのは、『万葉集』巻16の「能登国歌(のとのくにぶり)」の一首に出てくる、「橋立(はしだて)の熊来(くまき)酒屋に」という句である。この歌は、酒屋で働いている者に同情する内容になっているが、熊来酒屋(熊来とは現在の石川県鹿島郡中島町熊木)というのがどのような形態の酒屋であったのかはわからない。また、『日本書紀』巻15(720年完成)の、「室寿歌(むろほぎのうた)」の中で「旨酒 餌香(えか)の市に 値(あたい)以て買はぬ」とあるのが、わが国の酒類取引の初見とされている。餌香の市に出された酒は、あまりに旨い酒のために値段がつけられなかったという意味だが、どこで造り、誰が売っていたのかは不明である。

 古代、酒屋という言葉は酒を造る家屋を意味した。商売としての「造り酒屋」や、そこから酒を買って客に売る「請(う)け酒屋」(いわゆる酒販店)を意味するようになったのは、中世以降のこととされる。

 民間の酒造業者の存在が歴史に登場するのは、鎌倉時代初期頃からである。武家政権が誕生して朝廷での酒造組織が廃止になり、代わりに、政府や強大な権力を持つ寺社などが特定の業者に酒造りの特権を与え、その代償として酒役(しゅやく)と呼ばれる税(酒の現物または金銭)を取る制度に変わっていったためだ。また、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての時代には、すでに都市を中心とする市による交換経済が発達していたが、12世紀中期頃には貨幣経済が地方にまで浸透し、市での物々交換という原初的形態から脱却した、商工業としての造り酒屋が発展する下地ができていた。中世の造り酒屋の多くは、土倉(どぐら)と称する金融業(質屋)を兼ねていて土倉酒屋と呼ばれたが、『明月記』の天福2年(1234年)の条に、「土倉員数ヲ知ラズ、商買充満ス」とあることから、当時すでに多数の民間の酒屋が繁盛していたことがわかる。

 しかし、この時代の酒造りの中心を担ったのは寺院であり、酒造技術の飛躍的発展を見たのも僧坊酒で、『明月記』が土倉酒屋の繁盛ぶりを記した天福2年には、早くも有名な天野酒(あまのざけ)が醸されている。寺院が酒造りに乗り出した最大の理由は財源の確保だったが、その販売先は主として公家や武家、僧侶といった支配階級だった。一方、僧坊酒に比べて品質では劣ったものの、民間の酒屋の酒は広く一般大衆に飲まれており、現代的意味での造り酒屋の元祖は、やはり中世の民間の酒屋ということになるだろう。

 
 
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