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100人委員会コラム
加来耕三氏加来耕三(かく こうぞう)氏
歴史家・作家。昭和33年(1958)、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。「歴史研究」編集委員。内外情勢調査会講師。中小企業大学校講師。著書に、『評伝 江川太郎左衛門』(時事通信社)、『勝海舟と坂本龍馬』(出版芸術社)、『坂本龍馬事典 虚構と真実』(東京堂出版)、『戦国クライマックス! 関ヶ原30人の武将烈伝』(講談社)、『名君の条件 熊本藩六代藩主細川重賢の藩政改革』(グラフ社)など多数。

新撰組で一番の酒豪は誰か!?
 

 幕末、京洛の地を跋扈(ばっこ)した新撰組には、酒好きな隊士が少なくなかった。
「壬生浪士組」と呼ばれ、どうにか会津中将(松平肥後守)御預(おあずかり)に決まり、京都へ居座(いすわ)ることができてほっとした夜も、芹沢鴨(せりざわかも)や近藤勇(こんどういさみ)たちは、止宿先の八木家に酒をせびり、夜を徹して飲んでいる。
 とくに近藤や土方歳三(ひじかたとしぞう)ら試衛館(しえいかん)派の人々は、江戸で浪士隊募集の話を知ったおりも、夜っぴて痛飲していた。
 どうも、徹夜の酒が多かったようだ。しかも、仕事の成否に関係はなかった。
 慶応四年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、同月十五日に江戸へ戻った近藤、土方以下四十四名の新撰組の多くは、なんと、その足で深川の仮宅(のちの洲崎遊郭(すざきゆうかく))へくり出し、大いに気焔をあげている。
 戦(いくさ)は近代戦装備の長連合軍にしてやられたものの、懲りない面々は懐の大金で酒と女に走ったのだ。
「音に聞こえた新撰組は、いたるところでモテた」
 と後年、幹部であった永倉新八(ながくらしんぱち)は胸をはったが、その彼は六人の隊士を従え、深川の品川楼へ登り、小亀・嘉志久(かしく)・紅梅などの花魁(おいらん)を総揚げして、芸者も六人呼んで大さわぎし、さらには流連(いつづけ)したあげく、彼女たちを遊郭の外へ無理矢理(むりやり)つれ出し、洲崎楼へわたって飲食(のみくい)し、また来た道を戻って次の日も品川楼で流連をつづけている。

 とにかく、隊士が集えば酒になった。
 それはいいとして、問題はその酒癖の悪さであった。
 とくに、「新撰組」となる以前、「壬生浪士組」の時代は、「響き渡るような」(『壬生浪士始末記』)迷惑な酒で、
「浪士ときに一様の外套(がいとう)を着し、長刀地に曳(ひ)き、あるいは大髪頭(おおかみかしら)て掩(おお)い、形貌はなはだ律(く)しく、列をなして行く。逢う者みな目を傾けてこれを畏(おそ)る」(『鞅掌録(おうしょうろく)』)
とか、
「よって市民みな、疫病神のごとく忌(い)み怖(おそ)れり」(『壬生浪士始末記』)
 とある如く、初代局長の芹沢鴨らの一派だけではない、史実の新撰組は大半、酒に酔っては大暴れを繰り返していた。
 彼らは世に容れられぬ不平・不満を、酒でまぎらしていたのだろう。
 それが、池田屋騒動以来、新撰組の名が世に知られるようになった。が、悪酔いの酒は、一向にあらたまらなかった。
 なぜか。原因は隊の局長、副長が揃って酒豪ではなかったことと、実は無縁ではなかった、と筆者は考えてきた。

 ときの局長・近藤は、酔う前に盃をふせたと伝えられ、一方で甘党でもあったようだから、本来、酒豪とは縁遠い。
  副長の土方はどうか。俳句をひねる彼は、
“武蔵野や強う出て来る花見酒”
 などと詠んではいるが、酒よりは男色の方が専門であったのは間違いない。
 それに比べて、幹部連中はみごとに酒飲みが揃っていた。
 日々の稽古では真剣の型を中心にやり、非常呼集で闇の中を、刃のない抜き身で斬り合いを稽古させられた。睡眠中にも踏みこんで、実戦の教訓(きょうくん)を述べる。あげく、隊律に違反した者は処刑し、その介錯を隊士に割り当てる――云々。
 こうした殺伐とした日常の中で、隊士たちはまともな神経を維持できなかったのではあるまいか。
 逆にいえば、使命感が強く、闘志の激しい男ほど、新撰組ではうまい酒が飲めたわけだ。
 そういう意味で、殺人が日常生活の中、「人を斬ること、草をなぐがごとし」で自らの行為に何一つ疑問を持たず、大正二年(1913)になってもなお、新撰組が幕府を延命させたことを誇りにできた永倉新八は、おそらく新撰組随一の酒豪、といっていいのではあるまいか。
 耐えられない者は逃亡し、自発的に切腹して、悪夢のような毎日から逃れることを望んだ。
 明治九年(1876)に永倉が建てた墓碑には、隊士百二人の姓名が刻まれている。
 右側には三十九名の名前が列記されていたが、彼らは名誉の戦死者であり、左側に芹沢鴨や山南敬助(やまなみけいすけ)など七十一名がつらなっている。戦死以外――「殺害」「断首」「切腹」「病死」――の人々であり、この中で「病死」をのぞく三つが、隊規違反による処刑と考えられている。その数は名誉の戦死よりはるかに多かった。

 
 
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